科学的探求でも、芸術的創作でもなく、
ただこの世界に、静かに思いを巡らせる。
正解なき流転
すべての生命は、ひと時として同じ姿をとどめない
遺伝子も身体も意識さえも、静かに、絶えず変容している
それは、終わりのない創造
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私は、自らのゲノムのエクソームを解析した。エクソームとは、タンパク質の設計情報を持つゲノムの領域であり、生物の形や機能を決定する重要な部分である。ヒトゲノムは約30億塩基対あるが、エクソームはその約1〜2%にあたる約3,000万〜6,000万塩基対ほどしかない。今回の解析では約27万の変異が見つかり、そのうち約1万はアミノ酸変異に関係するものだった。しかし、その数が多いのか少ないのか、私には判断がつかない。
これらはヒトゲノム参照配列との比較によって判明したものだが、この参照配列は、複数人の配列を組み合わせて作られた、あくまで“基準”としての配列にすぎない。ヒトとしての「正しい形」が何かは、誰にもわからない。そもそも「正しい形」など、存在しない。
DNAは変異を重ねながら環境に適応し、世代を超えて受け継がれてきた。私の変異も、祖先から連綿と伝わってきたものなのか、あるいは世代交代のどこかで生じたものなのか、それとも環境要因によるものなのかもしれない。こうして生命は、長い時間のなかで形を変えながらも、絶え間なくつながり続けてきた。変異によって異なるアミノ酸が生まれ、新たなタンパク質が生み出される。それが生命の形を決定し、さらに変化しながら受け継がれていく。しかし、そこにも「正解」はない。長く生きることが正しいのか、環境に適応することが正しいのか――そうした価値観すらも、生命の流れの中では常に変わり続けていく。
人はしばしば、生物の系統や種の違いなどによって生命を分類しようとする。しかし、変異は連続的に積み重なり、生命は決して固定された存在ではない。生殖的隔離や形態、遺伝情報、進化の系譜など、分類の基準は多々あるが、それらは生命の複雑な流れを「一瞬の静止画」に切り取って便宜上名付けているにすぎない。本来、進化は連続的であり、境界はなく、ある個体が「新しい種」になる瞬間など存在しない。ある種と別の種の違いとは、長い時間の中で蓄積された変異の違いにすぎないのだ。
人もまた、流転する存在である。はるか祖先から子孫へとつながるなかで、同じ人間など存在しない。個性とは、遺伝子のわずかな違いと環境との相互作用によって生まれる唯一無二の流れである。私という存在は、ほんの一瞬、この世に姿をとどめるにすぎず、生命の流れのなかに組み込まれている。さらに、私たちは生きる間、「自分」という枠組みを固定したものとして捉えがちだが、細胞は絶えず生まれ変わり、身体は時間とともに変わる。思考も経験によって変容していく。今日の「私」は、昨日の「私」と同じではない。遺伝情報ですら、少しずつ変異し続ける。遺伝子は環境との相互作用の中で発現し、記憶や経験は脳内のシナプスを組み替えていく。そうして私たちは、絶えず変化し続けている。
生命が変化を続けるように、人間が築く社会もまた固定されたものではない。生命が環境に適応するように、社会もまた時代とともに形を変えていく。それはまるで有機的な生命体のように、変異を重ね、適応しながら連綿と続いてきた。人の意識は変容し、社会も流転し続ける。社会は、価値観や構造、文化を環境や時代に応じて変えながら存続してきた。では、私たちが求める『正しさ』とは、いったい何なのだろうか。生命において『正しさ』が幻想であるように、社会の『正しさ』もまた、「一瞬の静止画」のようなものなのだろうか。
DNAは、絶え間なく変異を重ねながら進化してきた。生命そのものが「正しい形」を求めるのではなく、「変化し続けること」を選び続けている。エクソームの変異は、まさに変わり続けることこそが生命の本質であることを示唆している。
「正しい形」など存在しない。
私たちは環境や経験に合わせて少しずつ変化し、その変化が新たな「個性」を生み出す。そして、その個性もまた変化していく。そしてまた、私たちをとりまく環境、社会も変容していく。
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私は絶えず変わりつづける。そこに正解はない。